株式会社 壮関 関 雅樹 社長


食品製造・卸・販売業
発想変えてヒット商品創出

おつまみなどで次々にヒット商品を生み出す株式会社壮関。
その裏にあったのは従来の常識にとらわれない発想の転換だった。
多様化する消費者の好みに応え、更なるアイデア商品の開発にチャレンジする。


profile

昭和42年(1967年)、栃木県さくら市生まれ。
氏家高校卒業後、上京して音楽活動。
その後、アパレル関連企業に勤務。平成4年、貿易業の壮関通商を創業。
食品製造業に転換し、同7年に株式会社壮関を設立と同時に代表取締役社長に就任。


ミュージシャンからトップセールスマンへ
関 雅樹社長
関 雅樹 社長

 関社長は中学3年生の時、実家の事業がつまずき厳しい状況におかれることになった。このため、高校3年間は親に頼らず自活して通学する。周囲のほとんどが進学する中で、当時の関社長には大学へ進むという選択肢は全くなかったという。
 音楽活動をやっていた先輩に誘われて上京。ロックバンドを組んでギターとボーカル、作詞・作曲を担当した。「とにかく独立して自分の手で稼ぎたかったのです」と当時の思いを振り返る。ライブハウスなどで演奏して生活をつなぐ日々が3年間続く。
 高校時代の友人たちを見れば、そろそろ大学を卒業して社会人になろうという時期。やはり音楽では食べていけない現実もあり、就職先を探すことにした。折から、住んでいたアパートの建て替えのため立ち退きを迫られて、寮が完備した会社に入ろうと考えた。最終的に入社したのが、輸入毛皮・和服・輸入雑貨などを扱うアパレル関連の会社だった。
 ここで営業の最前線に立つ。もちろん歩合制だ。東京だけでも営業マンが30人いる競争が激しい世界。しかし半面、がんばればそれなりに見返りがついてくる面白さがあった。ここでたちまちトップセールスマンの1人に躍り出る。入社半年で5~6人の営業マンを束ねるマネージャーに昇格。給料もよかった。結婚したばかりのころだったが、夫婦で都心のマンションに暮らすことができた。
 大きな転機となったのが物流センター長への異動だった。当時はバブルの絶頂期で品物が売れに売れていた。売れ過ぎて物流が回らなくなり、月に億単位のキャンセルが発生するという深刻な事態を引き起こしていた。センターには30人から40人の社員がいたが、そのトップとして、キャンセルを減らすことを第一にセンター全体のマネジメントを任されたのだった。


物流センターの立て直しで貴重な経験

 就任してみるとすべてにおいてめちゃくちゃで混乱の極みだった。商品が滞留していて、全員が毎晩、深夜12時過ぎまで居残っている状況だった。管理もずさんで何がどこにあるのかも分からない。こんなに忙しいのは営業部門のせいだという、抜きがたい感情的な社内対立が生まれていた。
 まずは物流センターと営業部門との対立感情を解消しなければならない。そこで断行したのが営業から人を呼び、商品の整理を手伝わせることだった。営業から見れば自分が売った商品が滞留している現実を目にして、おのずから一生懸命になる。その姿を見てセンターの社員たちにもやる気が出てきたのだった。
 一方で残業手当の支給、商品管理のための機器の導入などの改善にも力を入れ社長に直談判もした。やがて帰る時間が12時から11時に、10時にと改善され、着任から2~3カ月でキャンセルが数千万円単位に減った。半年後には全体が正常に回転するようになる。「実に密度の濃い時間でした。送別会の時には遠くからもスタッフが来てくれ、みんな泣いて送ってくれました。同時に世界規模で活躍することを願って地球儀をプレゼントしてくれました」と全力投球した時代を懐かしむ。
 どうしても独立して自分の裁量で稼ぎたいという欲求から抜けきれず、23歳で退社して貿易会社を立ち上げる。世話になった社長に迷惑をかけてはいけないとの思いから、アパレル業界は避けフィリピンへの重機輸出を手がけた。しかし、ここで代金を巡るトラブルに見舞われ、命の危険さえ感じる事態を経験する。
 何とか危機を切り抜けて日本に帰る機中、最初は腹立たしかった気持ちが徐々に落ち着いてきた。「命を落とさずにすんだ」と発想を変えると「なんてラッキーだったんだろう」と思えるようになったという。これが次への大きなステップになった。


小ロットでの生産で小回り良く対応
茎わかめなどの珍味・おつまみを製造・卸・販売しています
茎わかめなどの珍味・おつまみを製造・卸・販売してい
ます

 知り合いの業者が輸入菓子を扱っている社長を紹介してくれ、菓子の輸入販売をする仕事に切り替えた。全国の菓子問屋を回る苦しい生活が始まる。「この時期、痛切に感じたのは、他人と同じものを後から追いかけていたのではだめ、ということでした」。2~3年続けていく中で、自分で作って売りたいと思うようになる。
 最初に始めたのが、常温でお菓子の棚に並べて販売できる『ナタデココゼリー』だった。折からの人気に乗って爆発的に売れたが、あっという間にブームは去っていく。その後、安定的な需要を確保するために新商品の開発に力を入れる。底が平らなカップに入ったこんにゃくゼリー、ゴボウや大根を個包装にしてスナック感覚で食べる漬物などが次々に生み出された。現在も主力商品の1つである『茎わかめ』が誕生したのもこのころだ。
 『茎わかめ』の大ヒットを受けて、平成10年、工場を横浜から栃木県さくら市(旧喜連川町)へ移転し、量産体制に入る。「いつか故郷に恩返しをしたいという気持ちがあったのです」と関社長。現在は矢板市の矢板南産業団地内に本社機能と工場を構え、喜連川社会復帰促進センター内を含め、栃木県内に4カ所の工場が稼働している。
 「消費者の好みは多様化しています。小回り良く対応するため小ロットの生産ができるシステムを組みました。現在、自社製品は300種類以上あります」。昔からの商品も、発想を変えれば新しいヒット商品につくり上げられる。「『茎わかめ』はわかめの捨てられていた部分を利用したもの。つまみと言えば「乾き物」の時代でしたから、ぬるぬるして気持ちが悪い、絶対に売れないと言われたものでした」。
 種が入っているのが当たり前だったカリカリ梅や干し梅から種を抜いて商品化すると、これも大ヒットした。「要は売れない理由を排除していくこと。そうすれば必ず新しいものが生み出せます」と力説する。『我より古を作す(われよりいにしえをなす)』が関社長の座右の銘だ。食品分野はまだまだ伸びしろがあるとの判断から、他に手を伸ばす気持ちは全くないという。
 さらに、何よりスピードを大切にする。月に2回営業会議を開いているが、会議の中で吸い上げた販売店からの要望に基づいて直ちに試作品を作る。2週間後には目に見える形にするわけだ。販売店側から「こんなものは作れないか」という依頼がきて試作することも多くなった。
 従業員は150人。地元の雇用に大きく貢献している。社員にはただ一言、『仲良くしよう』と呼びかける。若かったころの苦労が経営の基礎にある。


株式会社壮関
〒329-1579 栃木県矢板市こぶし台4-1(矢板南産業団地)
TEL 0287-48-3301 FAX 0287-48-3303
URL http://www.sokan.jp

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