有限会社 いづるや 大塚 重夫 社長

創業50周年 伝統ある老舗企業
満願寺そば いづるや

出流山満願寺」の参詣者や猟師たちを相手に、素朴な家庭食としてのそばを提供することから始まった「いづるや」。
50年間、手打ちにこだわり、昔ながらの味を守ってきた。
変わらないように見えながら、着実に進化する姿がそこにはあった。

社長あいさつ
大塚 重夫 社長

大塚 重夫 社長

お陰様で創業50周年を迎えることができました。
地元栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、東京都、その他各地域の皆々様の変らぬご来店まことに有難うございます。従業員一同心から感謝申し上げます。
 私、大塚重夫は満願寺そばいづるやの2代目として今日を迎えることが出来ました。重ねて心より感謝と御礼を申し上げます。
 当店のある出流町は、有名なそばの生産地です。秋に収穫したそばの実を自社倉庫で保管し、必要な分だけ自社製粉し、挽きたてのそば粉を店内で手打ち、薪でゆであげ、50年秘蔵のそばつゆで召しあがって頂いております。
 「寒晒しそば」は7年前から研究に研究を重ねて完成しました。苦心の末作り上げた特別な「寒晒しそば」はお客様から大変な好評を頂きました。
 満願寺そばいづるやでは「挽きたて」「打ちたて」「ゆでたて」をモットーにに日夜努力を重ねております。さらにお客様の満足度の向上に努めて参ります。
 皆々様の変らぬご来店を心からお願い申し上げ創業50年のご挨拶とさせて頂きます。
                   有限会社いづるや 代表取締役社長 大塚 重夫

いづるやの歴史をたどる
一升盛

一升盛
店舗外観

店舗外観
自社製粉100%のそば粉

自社製粉100%のそば粉

 「いづるや」は昭和38年、坂東第十七番札所として知られる古刹「出流山満願寺」へと続く一本道沿いに、大塚重夫店主の父が創業した。出流川の源流部に当たる。うっそうとした杉林に囲まれ、ほかには食料品を商う店と、参詣者を客とする土産物品店が二軒ほどあるだけだった。
 最初はそば店ではなく、精米所だったという。近隣の人たちから頼まれて米を精米し、大豆を挽いて〝こうせん〟を、また、そばも挽いてそば粉を作っていた。同時に食料品の販売などもしていた。
 当時は出流山のお祭りがにぎやかに行われていた。近隣の農村から農耕馬を引いて、着飾って出流山にお参りするのが、近隣の農村に住む人々の最大の楽しみだった。
 もちろんそのころは今日のような車社会ではない。参詣する人々も大半は徒歩、よくても自転車の時代である。盛大なお祭りに人が集まったとは言っても、訪れる人数は現在とは比べものにならない。先代は農協に勤めており、店は大塚店主の母、トキさんが一人で切り盛りしていた。地元の人たちを相手にした女手が頼りの内職に近いものだったのだ。
 また、出流周辺の山に猟に入った猟師たちが、猟が終わった後に立ち寄ることも多かった。酒を酌み交わしながら猟談義に花を咲かせるわけだが、その際に何か食べるものはないかと問われ、そばならできるということで、トキさんがそばを打って大きな1升盛りを出した。これがそば店としての「いづるや」の始まりとなった。昭和40年代の初めのころである。
 この近隣は山間地で寒暖の差が激しい。良質の水も豊富に湧出する。そばの栽培やそば打ちにはもってこいの条件を備えている。出流からひと山越えた佐野市の仙波地区は、〝仙波そば〟の産地としても知られる。各家庭には一家の主婦たちによって、古くからそれぞれの味が伝えられてきた。トキさんはその家庭食としてのそばを客に提供したのだった。
 地元では当たり前の郷土食が、県外などから訪れた人たちには珍しく、おいしいものだった。周囲には家庭で食べているものを売ったところでどうなるものかと、冷やかに見る目もあったが、人がやらないことに手をつけたという点では、今に続く先見の明があったといえる。まさに出流のそばの先駆者となったのである。
 やがて宴会などが頻繁に入り、さらに車社会が到来すると、遠くから食べに来るお客さんも多くなってきた。そうした変化に対応するため、店も増築し現在の形に近づいてくる。トキさんがそばを打ち、大塚店主の奥さんが手伝い、パートの女性たちも雇うなどしたが、それでも間に合わないほど来店者が増えてくる。
 昭和55年、百貨店に勤めていた大塚店主は、いよいよ店を継ぐ決心をして退職し、店に入ることになった。間もなく先代が亡くなり、経営の全権は大塚店主の双肩にかかってくることになった。
 大きな転換点となったのは、平成6年、テレビに取り上げられ、爆発的な人気を呼んだ時だ。東北自動車道を降りた車が栃木ICから連なり、大渋滞を起こすというエピソードを残した。これをきっかけに、出流そばは全国的に知れ渡る存在になった。奥の宴会場を110人が収容できる規模に建て直し、駐車場も拡張した。
 お客さんが増えるにつれ、注文を受けてさばいていくのが一苦労になる。出てくるのが遅いと厳しいお叱りを受けたこともあった。注文ミスを防ぎ、できるだけ早く食事を提供するために、当時はまだ珍しかったITを使ったオーダーシステムを導入した。
 一からの立ち上げだったため、戸惑うことも多かったが、百貨店に勤めていた時の同僚が手伝ってくれ、顧客管理の経験も生きた。こうした取り組みによって、経営の近代化が急速に進んでいく。山間地の素朴なそば店に完備された最先端のITシステム。その取り合わせの珍しさも、食べに来たお客さんたちの評判になった。
 こうして「いづるや」は、「出流そば」の代名詞的な存在ともなったが、「出流山があってこそ商売ができる」との意識は今でも変わることはない。大塚店主は地域全体の振興を目的に、周辺の店に呼びかけて「出流観光会」を立ち上げた。数年前には新メニューとして「寒晒しそば」を提案。山深い出流のたたずまいと相まって、新たな名物に育ちつつある。地域おこしの側面が注目されて、地産地消の取り組みの視察も増えている。
 お客さんの中には何代にもわたって食べにきてくれるファンも多い。「この前も『おじいちゃんの誕生日に、みんなでおいしいそばを食べにきました』と言ってくださるご家族がいらっしゃいました。本当にうれしいことです」と大塚店主は感激する。
 大塚店主の弟の晴夫さんは、京都の延暦寺会館で本格的な精進料理を学んできた。三代目の章弘さんも跡を継ぎ、三歳になる孫までもが、そばの手打ちのまねごとをするようになった。次代へつなぐ体制は整いつつある。
 家庭的な雰囲気のスタッフに支えられ、大塚家が伝えてきた古くからの味を大切にしながら「いづるや」はこれからも進化を続ける。

うまいそばへのこだわり
「二八の金つなぎ」いづるやのそば

「二八の金つなぎ」いづるやのそば
そばの花畑

そばの花畑
奥座敷は100名までご利用いただけます

奥座敷は100名までご利用いただけます

 そばの実の外層部に近づけば近づくほどおいしく風味豊かなそば粉ができるとされる。さらに、この外層部を多く含むほど、たくさんの栄養を含んでいる。「いづるや」のそばの原点は、そば殻を除いたほとんどの部分を使った黒っぽい仕上がりの昔ながらの「田舎そば」。創業当初に行っていた製粉の技術を生かして、素朴な味を守り続けている。
 「地元の農家からそばを分けてもらい、自家製粉して手打ちしたのが、うちの伝統的なやり方です。これがなくなってしまえばわざわざこんな山奥まで食べに来てはいただけません。それが他店との差別化にもなります」。店の運営のIT化は進めても、この基本姿勢は今後も崩さない、と大塚店主はきっぱりと語る。
 「挽きたて、打ちたて、ゆでたて」の三たてを信条にする。おいしいそばには不可欠のこれらの行程をおろそかにせず、最高の状態で提供することを心がける。
【挽きたて】
 近隣の仙波地区や永野地区の生産農家との間で契約栽培した地元産の玄そばを、臼型製粉機で一番粉から五番粉まで挽いて合わせるのが「いづるや流・挽きぐるみ」。自家製粉でなければできない方法で、風味にバラつきのないそば粉の合わせ方が腕の見せどころにもなる。
【打ちたて】
 そばを味わう上で欠かせないのが、〝喉越し〟の感触だ。これを決定づけるのは、そばに含まれるたくさんの小さな気泡。気泡があればあるほど、そして小さければ小さいほど、喉越しのよさが楽しめるが、これは手打ちなればこそ可能な〝技〟なのだ。
 盆ざるに盛られた香り高いそばは、細いのにしっかりとしたコシがある。そば粉八割、小麦粉二割を卵でつないだ「二八の金つなぎ」。卵の黄身を「金」に見立ててこのように呼ばれる。二升玉に二個の卵を入れ、味にまろみとコシを出している。
 そばを手打ちする様子は店内で見学ができる。普段はあまり見られない光景だけに、特に都市部からのお客さんには大好評だ。「作業を全部見られていますから、〝手抜きそば〟にするわけにはいきません」と大塚店主。安全安心情報提供の究極の方法ともいえるだろう。
【ゆでたて】
 そばの味をよくするには、木の柔らかさと高温度で燃える薪が必要となる。「いづるや」が創業当初から使っているのが松の薪。登り窯では1,200度にもなるとされる火力の強い松は、短時間でさっとゆで上げるのに最適な燃料で、繊細で微妙な味わいを引き出すことができる。
 これらのほか、出流地方の地質が生み出しているのが良質の「水」。葛生が石灰の産地として知られることから分かるように、この周辺は石灰質のアルカリ性土壌で、それらをくぐった水もアルカリ性の性質を持つ。これに対してそばは酸性なので、中和されてよりおいしくなるという。また、玄そばを低温保存するため、石蔵を手に入れ、低温倉庫につくり直した。これによって年間を通して新そばの味が保てるようになった。

寒晒しそばで地域おこし
出流山の滝壺

出流山の滝壺
寒晒しそば

寒晒しそば

 今、出流の新しい名物に育ってきた「寒晒しそば」は、大塚店主がたまたま読んでいた本に出ていたことが導入のきっかけとなった。世間を不況の波が襲い、また、お客さんの好みも多様化し、従来のメニューだけでは厳しい時代を乗り切っていくことが難しくなっていた時期だった。
 大塚店主は、本に書いてある手順に従って、出流山の奥から流れ出す沢の冷たい水にそばの実を冷やして試作してみた。これがなかなかの出来に仕上がった。そこで、「出流観光会」のメンバーを招いて食べてみてもらったところ、「これはうまい」と大好評を博した。こうして観光会全体としての取り組みが始まった。
 「寒晒しそば」は、もともとそばの産地、信州高遠藩が将軍に献上したのが始まり。玄そばを冬の最も寒い時期に冷水にひたし、さらに寒風にさらして乾燥させると、夏でもおいしく食べられることから、献上品として珍重されたものだ。厳寒であることが必須となるが、その点、山間部にあり、冬には寒風が吹きすさび、水もきれいな出流の地は、またとない好条件を備えていることになる。
 出流で売り出すに当たっては「出流山あっての自分たち」という原点に立つことを申し合わせた。そばの実を冷やす場所として、霊験あらたかな出流山の滝壺を借り受け、この際、自分たちも滝行で身を清めて仕事にかかろうという話にまで発展した。実際に一月の大寒の日にみんなで滝に打たれてみると、実にすがすがしい気分になったという。
 寒い二月はどうしても客足が鈍る。しかし、「寒晒しそば」の登場で、他の月と同じようにお客さんが入るようになった。夏でもおいしく食べられることから、七月に出す「暑中寒晒し」も評判を呼んでいる。
 おいしいのは当然としても、極めて手間がかかるため、大量には生産ができない。数量限定の販売とならざるを得ず、その稀少性も人気を呼ぶ要因となった。

出流観光マップ

出流観光マップ

①出流ふれあいの森
②福寿屋
③福松
④岩本屋
⑤民宿いづる
⑥やまぶき(ふれあいの森)
⑦さとや
⑧いしやま
⑨いづるや
有限会社いづるや

〒328-0206 栃木県栃木市出流町141
フリーコール 0120-310-638
URL http://www.iduruya.co.jp

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栃木の活性化の起爆剤に。